「どのように」書くか?――「本当にひとりの人間が書いているの?」と思わせるブログを。
本ブログは一見してわかるように所謂「雑記ブログ」で、始めた当初から「こうしよう」と考えていたのは――こういうふうに考えてブログを書いている人がどれくらいいるか、あるいは全くいないのか、わかりませんが――、
どれも私の関心という点以外には、ほぼ相互に無関係な(ように見える)雑多な内容であるばかりでなく、内容に応じて文体も異なるような、「これ、本当にひとりの人間が書いているの?」と思わせるようなブログにする。
ということです。
その戦略(本当は「戦略」では全然ありませんが)はブログとしての一般的な方法論としてたぶん、SEOとか集客、というような意味では根本的に間違っているのではないか、と想像します。
「なぜ」そう書くか?――私が読みたいものと、書く愉しみ。
ではなぜそのような書き方をしようとしているか、というと、
・そうふうに書くことが愉しい。
・そんなブログがあったら読みたい。
から。これに尽きます。
ひとつめの方はモチベーションの部分で、私はこのブログを収益目的で始めたわけではないし(続けていくためにいつかするかもしれませんが、今のところ収益を得る手段は導入していません)、もちろん書くからにはより多く読まれたいし、一つひとつの記事については「読んで面白い」ことを意識して書いているつもりですが、それと同等くらい、自分にとって「書く快楽」を得られる書き方を、ということ。
ふたつめについては、そのようなブログがあったら私はとても興味を持つだろうな、ということ。一見繋がりのなさそうなジャンルや事柄が、この書き手のなかではどういふうに関係しているのか、というように、想像力を刺激される愉しみ。
――ただ実際そのように書けているかというと、少なくとも私自身としては、結局は私の文章、という域を出ていないようなきらいはあると思っていますが。
小説や映画といったフィクションは、ストーリーや主題よりも、その描き方(語り口といっても文体といってもディスクールといってもいいでしょうが)の方が重要、というよりそれこそがフィクションの面白さだと私は思っていて、「この書き手は、どうして“こういうふうに”書いているのか」と考えることが、私が文章を読むときに一番面白さを感じる部分でもあります。
先述したように「他人が読んでも面白いものを」ということは意識して書いていて、不特定多数というよりも、「私の知っているあの人」のような誰か、というか、「こういう文章でこういう内容だったら、(友人の)あの人みたいな人だったら面白がってくれるかもしれないな」というか。――その人自身というより、「その人みたいな誰か」というのも結構重要で、私は人に届く文章というのはそういうものだと考えています。
何を優先させるか? 「正しい」方法よりも、自分にフィットするものを。
また、記事を書く方法論というか、タイトルや見出しの付け方や文章の作法のようなものは、私は以前に数年ほど、雑誌・書籍の編集者・ライターをしていたことがあり、もともと雑誌や本が好きだったのと、そのときの方法論や経験則がアタマから離れないのもあって、このブログにおける記事の構成や文章作法も、ブログ的な書き方よりも、(私の読みたい)雑誌のようなものを想定して、「自分がこの雑誌の編集者だったら、この文章にどのようなタイトルをつけて、どのような見出しにするのか」「どうしたら読み手が興味を持ってくれるのか」ということを意識しています。
繰り返しますがそれは「ブログ的には」誤った、もっといえば時代錯誤的な作法なのかもしれません。そういうことよりも、私が読みたいもの、私自身がそういうブログを見つけたら嬉しくなるようなもの。それを優先させているということです。
ブログ運営に関するブログの記事はあまたありますが、私が読んでみたいこういうことを書いているブログはあまりないようですので、私自身の思いを書いてみました。私が見つけるのが下手なのかもしれませんが。これからももっと面白いものを読み、書いていきたいと思っています。
私がブログを雑誌に見立てたときに、一種の理想として想定していたのはかつて角川文庫で出いてた片岡義男のこの本です。一冊の文庫を、片岡義男自身の「個人的な雑誌」と捉え、インタビュー(おそらく著者本人の構成による架空のもの)、小説や社会事象についてのエッセイ、オートバイについての散文などが収められています。まさか電子書籍として復刊しているとは!
【(私の)映画レビューの書き方】
【片岡義男の文章の魅力について】