天神崎。
ここに来るといつも、いつの間にか「ウユニ塩湖みたいな写真が撮れる」ということでインスタ映えスポットとなった岩礁ではなく、天神崎の、その<崎>の後背山である標高約三〇メートルの日和山に登る。
いつも、というのは<チャーちゃんと来るといつも>で、ひとりだとただクルマで流して海を見て鳥を見ているだけのこともある。
その三〇メートルの日和山も含めた天神崎は何年か前から「吉野熊野国立公園」の一部となっている。主要二箇所の登り口には国立公園となってからつくられた、まだ真新しい案内板がある。三〇メートルだから小学校低学年(この四月に二年生になった)のチャーちゃんにもラクラク登れるが、大人でも慣れていないと山道は意外にキツい。わたしも今では慣れてラクなものだが、それでも登山道は登り口の一方は横木を渡して簡単な階段に設えてあり、もう一方はどういったらいいのか、地表に出ている木の根っこをうまく利用してジグザグに登れるこちらもある種の階段になっている。道々にはウラジロの鬱蒼とした群生を掻き分けながら進むところがあったり――雨上がりだとツルツルしたシダ類のウラジロに乗っかった水滴をシャワーのように浴びることになる――、急に開けて立木がなく岩肌や砂地が露出しそこでは存分に陽の光を浴びたり、下草がいつも伸びきってどこが道かわからなくなりそうなのはまだいいが、必ずといっていいほどジョロウグモだかのクモの巣に引っ掛かるところがあったり、こう書くと楽しそうに思えないかもしれないがそれなりに整備された山道でも、植生にも詳しくないわたしのような人間でも、自然のアスレチック、ちょっとした探検隊気分でいつも楽しい。
チャーちゃんと登ると決まってトレイルランじゃないけど登りは山頂までの競争になり、必ずチャーちゃんが勝つ。子どもと勝負するとき、親は手を抜いて負けてあげている訳じゃない。といっても他の人のことは知らないし、チャーちゃんは今でも法的にも、存在論的にも? 妹の息子で、チャーちゃんにとってはわたしは「ユウちゃん」で、普通の親子関係とは違っていても一緒に暮らしていて人から見ても自分の意識としても親みたいなもので、だからはっきりと断言できるが、親が子どもとの勝負に負けるのは、本当に負けているのだ。
天神崎というところは一九六〇年代にナショナルトラスト運動の本邦の嚆矢として、行政や開発業者との折衝、住民の土地買い取りなどの地道な活動によってリゾート開発による環境破壊を免れた海岸とその後背山で、その経緯については『天神崎を守った人たち』(朝日新聞社、1989年)という本に詳しい。「天神崎の自然を大切にする会」による天神崎の土地の買い取りも含めた環境保全活動は今も続けられていて、インスタ映えもその活動さまさまなのだが、端で見ていると天神崎に来る人たちは、インスタ映えを求めてくる人たち(意外と若者だけではなく老若男女だ)、釣り人たち、スキューバダイビングを楽しむ人たち、岩礁のタイドプールで磯遊び・潮干狩りをする親子連れ、ここでは一番少数派のわたしとチャーちゃんのような超低山ハイカーに至るまで、それぞれの服装から嗜好は(ほとんど同じ場所にいるのに)くっきりとクラスターとして分かれていて、越境することがない。ように思える。
――結局のところ、自然環境は何のために保全されているのだろうか、とわたしもその一群のなかのひとりとしていながら考えていたりすると、いつも結局チャーちゃんとの勝負に負けてしまうのだ。
シリーズ「日々のレッスン」について
「日々のレッスン」は、フィクションと日記のあわいにあるテキストとして、不定期連載していくシリーズです(できれば日記のように、デイリーに近いかたちで続けていけたら、と考えています)。また、それにApple Musicから選曲した<野鳥音楽>プレイリストを添えた「日々のレッスン ft. Bird Songs in Apple Music」を、月1、2回のペースで更新しています。
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