劇場版ポケットモンスター ココ
英題: Pokémon the Movie: Secrets of the Jungle
製作年:2020年
上映時間:99分
監督:矢嶋哲生
(※以下文中で、本編の結末に触れています。)
息子たちに勧められて。
小6の長男と年長組の次男がポケモンのアニメを観ている。もともとアニメ嫌いの長男で、次男につられて観始めた彼が、弟と一緒に観た、『劇場版ポケットモンスター ココ』が素晴らしいという。「父ちゃんも観た方がいい」という。
人の手の入っていない、<オコヤの森>と呼ばれるジャングルの奥地で、ポケモンたちが暮らしている。その生態系の頂点に、ザルードというポケモンの群れがある。ザルードはオランウータンのような魁夷な体躯と、チンパンジーのような敏捷さを併せ持ち、腕から生えてくる蔦は、MCUのスパイダーマンのウェブ・シューターのように飛び出して、ジャングルのなかを縦横無尽に駆け回る。
このザルードのひとりに育てられた、人間の孤児、ココが本作のメイン・キャラクター。父・ザルードにザルードとして育てられたココは、ポケモン(ザルード)の言葉を話し、ザルードと同じく、両手を前脚のように扱い、木々を飛び移り、人間のことばを解さない(本編では、ココとザルードたちとの会話は日本語に吹き替えられているが、これはストーリーテリングの手法上のもの)。
「ポケモンマスター」を目指す旅の途中、ジャングルのなかで主人公・サトシはココと出会う。ジャングルの淵に落ち、ココが溺れかけているところを救ったサトシは逗留している近くの街へココを連れていく。こうした設定を観ていると、わたしのようなすれっからしのオトナはすぐ、過去の作品や事象を参照してしまう。
カルチャーギャップをコメディとして描く、これまでの物語。
動物に育てられた人間というと、オオカミに育てられたアマラとカマラという、20世紀初頭のインドの二人の少女がいた(現在の見解では、「オオカミに育てられた」というのは彼女たちを保護・養育をしていた孤児院を運営するキリスト教伝道師の創作であって、その部分の信憑性はほぼ、否定されているようである)。
また異文化のもとで育てられた例としては、19世紀、アメリカ・インディアン(シャイアン族)に助けられて養育され、その後アメリカ陸軍のカスター将軍に拾われて「ワシタ川の虐殺」や「リトルビッグホーンの戦い」を目撃したという白人、ジャック・クラブ(ダスティン・ホフマン)の物語、映画『小さな巨人』(1970年、アーサー・ペン監督)がある。
壮大なトールテール(ほら話)でフィクションである『小さな巨人』でもそうだが、異文化との出逢い/遭遇は長らく、映画などエンターテイメントの世界ではそれ自体をコメディ(カルチャーギャップ・コメディ)として描く傾向がある。
近作でいうと、韓国の財閥令嬢にして起業家の女性と、北朝鮮の将校とのロマンティック・コメディ『愛の不時着』(2019~2020年のNetFlixドラマ、イ・ジョンヒョ監督)がそうだし、『ワンダーウーマン』(2017年、パティ・ジェンキンス監督)しかり、そしてその参照元となっている名作『ローマの休日』(1953年、ウィリアム・ワイラー監督)もそうした例に当てはまる。
此彼の違いをあげつらうことがない、サトシの視点。
しかし『劇場版ポケットモンスター ココ』のサトシは、前述のバックグラウンドを持ち、街中でもジャングルのなかと同じように飛び回るココを、奇異の眼で捉えることが一切ない。出逢ったときから一切。そこがいい。ココの本当の両親を探すのを手伝うサトシも、手塩にかけて我が子同然にココを育ててきた父・ザルードが、人間社会へココを送り出す姿も、此彼の違いをあげつらうことがない。
物語のラスト、ジャングルのなかで徒党を組み、王者として振舞っていたザルード一族は、生態系のなかの他のポケモンたちとの共生を選ぶ。そしてジャングルの秘密を知った科学者の悪行を阻止し、平和が訪れたオコヤの森にココは父・ザルードを残し、「ポケモンと人間の架け橋になる」という夢を抱いて旅立つ。理想主義的な結末ではあるけれど、この「分断の時代」に、子どもたちに愛される作品で、現代的な主題とナラティヴを選び、このような傑作に結実させた製作陣に敬意を表したい。安易にヒロイックな死を選ばない展開も素晴らしい。
そしてそれを受け取った、我が家の二人の男子が、新しい世界を創っていってくれることを、切に願う今日この頃です。
『劇場版ポケットモンスター ココ』はDVD/ブルーレイのソフト発売の他、各種配信あり。現在、Amazon Primeでは会員特典として無料配信中(2022/2/23現在)。
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