新しいPCを買う代わりに、新しい紙とペンを買う。
わたしはこのたび、紙とペンを買いました。
何をあらたまって、おかしなことを。と云われるかもしれない。
本当にそうだ。
だからわたしは、重ねて云いましょう。わたしは新しいChromebookを――知らない人にそっと呟くなら、Google謹製のOS 、ChromeOSを搭載したノートブックPCのこと――を買う代わりに、サインペン、三菱鉛筆のEMOTT(エモット)のブラックを、そしてマルマンのノートブック、Mnemosyne(ニーモシネ)の横長A5サイズ、5mm方眼罫70シートのリングノート、「N182A」を買いました。
そして今、そのふたつを使ってこれを書いています。そう、Chromebookのキーボード(わたしはすでに、ASUSのChromebook、C202SAを3年弱、愛用しています)でタイピングする代わりに。
PCではなく紙とペンを購ったのは、端的にいってわたしのフトコロ事情から、万単位の支出をすることができないからですが、もっと本質的には/マインドとしては、あるいは多くの人にとっては驚き、呆れるべきことであろうけれど、わたしにとっては新しく快適で心はずむ「紙とペン」によって、新しいPCを代替することが可能だからです。
大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。
紙とペンがあれば文章を書くことができる。
イエス。
わたしがPCを使ってやっていることといえば、キーを打って文章を書くこと。
イエス。
だからコンピュータを買うことと、紙とペンを買うことは同じなのだ。メチャクチャ無理筋っぽくても、因果律としてはOKのようですが、わたし自身の考えは、これとも少し、違います。
ここで少し迂回しましょう。あるテキストを引用します。
一八七九年の講演「民衆の芸術」で、モリス*1はこんなことを述べている。
革命は夜の盗人のように突然やってくる。私たちが気づかぬうちにやってくる。では、それが実際にやってきて、さらには民衆によって歓迎されたとしよう。そのときに私たちは何をするのか? これまで人類は痛ましい労働に耐えてきた。ならばそれが変わろうするとき、日々の労働以外の何に向かうのか?
(中略)
モリスはこの問いにこう答えた。
革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ、と。
なんとすてきな答えだろう。モリスは暇を得た後、その暇な生活を飾ることについて考えるのである。
今日のわたしの文章はここで終わります。なぜなら、ニーモシネの1ページが、ここで尽きたから。わたしが事前に思い描いていたよりも、ニーモシネにエモットで書いたわたしの字は、ずっと汚い(下の画像参照)。
上綴じ横長A5サイズ、のニーモシネ「N182A」は、“アイデア出し”用途という位置づけらしいが、わたしにとっては、まとまった文章を書きたくなるノート、という気がする。こんなふうに2段組みに詰めて書いて、だいたい1500字くらい。
――けれど、紙にペンを走らせる、発色もすべりもいいサインペンを、こちらもなめらかな書き心地の紙の(正確には、70枚のノートブックの1枚めだから、紙の分厚い重なりの)上に走らせる。とても気持ちがいい、感じがいい。
そのことだけを、今日はあなたに伝えたかったのです。
Chromebookのなかでもとくに、教育現場などタフ&ポップな使用目的で作られたC202SAのような製品の方がむしろ、「紙とペン」みたいな=文具みたいなPC、ということになるのかも、とも思います。
突然引用した本書は、國分功一郎による、“暇と退屈”を論じ尽くした哲学書であって、帯の惹句にあるように、「明るく溌剌と、人生の冒険に乗りだすための勇気を」得られる快作。
【以前の記事から】
*1:引用者註:アーツ・アンド・クラフツ運動で知られる一九世紀末英国のデザイナー/社会主義運動家、ウィリアム・モリスのこと