ソトブログ

映画と本、自然観察(あるいは40歳、2児の父の日常)

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映画レビュー『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』――トム・クルーズにもイーサン・ハントにも、私たちにも同じように、時間の流れる。

 

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ミッション:インポッシブル/フォールアウト
原題:Mission: Impossible - Fallout
製作年:2018
監督:クリストファー・マッカリー

 

 

“語れば語るほど、作品から遠くなる”

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先日上記の記事で触れたとおり、今回、初めてトム・クルーズの『ミッション:インポッシブル』シリーズを劇場で鑑賞してきました。結論からいうと、とっても、面白かったです。それで折角だから何か書こうと思ったのですが、何というか、私には(一見)書くことがない。「面白かった」でいいじゃないか、この映画について、他に何か言うことがあるのか?と。

 

映画に限らず、フィクション、あるいは芸術全般まで拡げてもいいけれど、批評することと、感想は違います。しかしそれ以上に、「批評すること」と「観ること」そのもの、「感想」と「観ること」そのものは、「批評」と「感想」との距離よりも、ずっと遠いことじゃないかと思うのです。観たからにはレビューしたい、あるいは、何か感想を言いたい、と思ってこういうところに書いたり、人に話したりするわけですが、途端に、「自分が感じているはずのもの」と違う、書けば書くほど、語れば語るほど、作品そのものとは遠くなる感じを味わったことがないでしょうか。

 

作品じたいがパーソナルで小さな出来事、物語を描いたものだけでなく、この『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』(以下、長いので『フォールアウト』と表記します)のような、ブロックバスターな大作=万人に開かれたような娯楽作品であっても、それがどのように「私自身」に響くのかは、実は敏感にならないとわからないものです。

 

私は『フォールアウト』を観て、この「面白かった」気持ちを、なんとか、「自分が感じているはずのもの」に近づきたいと思って、パンフレットを買い、シリーズ近作を観返したりしてみました。以下、本作の面白さ、私が感じた「面白さ」にどれだけ近づけるかわかりませんが、私が気づいたことを書いてみたいと思います。ひょっとするとあまりにもパーソナルすぎて、これから観ようと思っている人の参考にも、すでに観た人が作品理解を深めるということにも、ならないかもしれません。それでも、私は思うのです、作品を受け取るということは、受け手一人ひとりにとっては、それだけ「個人的」な価値があるものじゃないかと。

 

他の誰も真似できないトム・クルーズのアクションに感じる、“切なさ”


本シリーズの、ド派手で迫力あるアクション・シーンのスタントの数々を、可能な限りCGに頼らず、しかもトム・クルーズ本人が演じていることはよく知られています。今回も、(この作品のためにライセンスを取って)ヘリを操縦し、パリのど真んなかを猛スピードでバイク・チェイスし、ビルからビルへ屋上を――背筋を立てて胸を張り手の平を開いて指先を揃えキビキビと腕を振って走る――所謂“トム走り”で駆け抜け、あまつさえ上空7620メートルからHALOジャンプ(高高度降下低高度開傘)を行っています。

 

御年56歳のトム・クルーズの、他の誰にも真似できないこうした身体を張りまくった超絶アクションに、豊富な知識と精緻な読みの映画評で定評のある、ライムスター・宇多丸氏はTBSラジオ『アフター6ジャンクション』内の映画評で、「拝んで観ろ!」と言われていました。これについては完璧に同感ですが、私はこの、とにかく「凄い」としか言いようのないアクション・シーンの連続(本作『フォールアウト』は過去作に増して、この絶え間ないアクションが突出している感があります)に大歓びで手に汗握りつつ、どこか切なさを覚えているのです。

 

「トム・クルーズはいつか、こうした明らかに<無茶>なアクションによる事故で、命を落としてしまうのではないか?」

 

トム・クルーズ=イーサン・ハントにも、私たちと同じように。

 

『フォールアウト』は同じクリストファー・マッカリー監督による前作『ローグ・ネイション』から引き続いた物語となっており、私はその『ローグ・ネイション』、そして前々作『ゴースト・プロトコル』と続けて観返してみました。驚いたことに/あるいは当然のように、3作の筋立ては似通っていて、トム・クルーズ=イーサン・ハントの属する米国のスパイ組織「IMF」が解体的危機に陥る一方で、イーサン・ハントと彼の同僚たちは、裏社会の世界的テロ集団が画策する未曾有のカタストロフに立ち向かいます。

 

『ゴースト・プロトコル』(2011)から今作『フォールアウト』まで7年の月日が経過していますが、そうした「物語」の「同じっぷり」に私は困惑する――私個人の実感では世界って、ここ何年かでずいぶん空気感が変わったような気がするけど、「こんなにも同じ」だったんだ――一方で、実はトム・クルーズのルックスは、かなり変わっています。端的にいって、やっぱり老けた。ギリギリ40代だった『ゴースト・プロトコル』では、少し長めのヘアスタイルのせいかまだどこかに青年っぽさを残す顔立ちだったものが(アラフィフでそれというのも凄いことですが)、『ローグ・ネイション』を経て今作『フォールアウト』では、はっきりと壮年の相貌になっています。ずっと同じ彼であるように見えて、あるいは回を増すごとに、アクションの量も質もエスカレートしているトム・クルーズ=イーサン・ハントにも、私たちと同じように、歳月は経過しているのです(当たり前ですが)。

 

こうして3作を続けて観ること(が気軽にできてしまうこと)で、そのことを痛感してしまうのは、俳優にとっては――とりわけ30年以上にわたり「変わらず」トップを走り続けてきたように見える大スターにとっては、非常に残酷なことだと言えるでしょう。しかしそれを外から(文字通り、スクリーンの「外」から)観ている私たちにとって不可逆な時間がトム・クルーズ=イーサン・ハントにも流れていることを、私たちが実感できるのは、とても幸福なことなのです。

 

幸福な“苦笑い”――彼らにとっても、私たちにとっても。

 

『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』公式スチールより

 

私は今回『フォールアウト』でシリーズ史上最高の、そしてトム・クルーズ史上最高のアクションを目にしつつ、シリーズを遡ってそこに流れている時間を確認して、確信しました。実は、トム・クルーズ自身もそうなのではないか、と。これだけの大スターですから、メイクアップ、身体づくり、あるいは整形、コンピュータ・グラフィックス。色々な方法でアンチエイジングして、ルックスを保つことはできるはずです。にも関わらず、トム・クルーズのルックス、特に髪型を含めた顔、皺、表情を、彼はあえて、年相応に寄せていっているようにさえ思えます。体つきにしても、今回、よりマッチョに、あるいはやや鈍重にさえ見えなくもありません(これほどまでのスタントに耐えうる強靭な肉体であるためには、スマートな「細マッチョ」ではありえないのかもしれませんが)。観客の求めるものに応じて、そして自らのチャレンジ・スピリットに鼓舞されて、倍々ゲームでエスカレートしてくアクションを年齢に、流れる時間に逆行しながら取り組んでいるように見えながら、歳を重ねることを愉しんでいるのではないか。

 

『ミッション:インポッシブル』シリーズではお約束のように、とりわけ無茶な(身体を張る)ミッションの前に、サイモン・ペッグ=ベンジーや仲間たちに冷やかされながら、「え、オレがやるの?」みたいな顔をトム・クルーズ=イーサン・ハントがするシーンがあって、私はそれが大好きなのですが、何故なら、そのとき苦笑いする彼(トム・クルーズであり、イーサン・ハントでもある)の表情は、端的にいって、とても幸せそうだからです。

 

私たちの誰も、トム・クルーズと同じように寄る年波に抗って、あんなスタントを演じることはできません(くどいようですが、当たり前です)。にも関わらず、トム・クルーズ=イーサン・ハントには私たちと同じように時間の流れ、年をとっていくのです。今作で、イーサン・ハントの妻であるジュリア(ミシェル・モナハン)が再び、そして重要な場面で出てくるのは、その当たり前の事実を、彼らにも、私たちにも改めて、強調しているのだと思います。

 

こんな幸福な映画/キャラクター/キャスト/観客、そして人生が他にあるでしょうか。私は本作を観て、そう思いました。

 

“巴里の空の下、トム・クルーズ=イーサン・ハント/そして私たちに時間の流れる”

 

時間「の」流れる、という助詞の使い方、そして最後の一文の言い回しは、上記2冊の(素敵な本の)タイトルから使わせていただきました。

 

【映画関連のこれまでの記事】

 

【トム・クルーズの初期作品について触れてみました。】 

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