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映画レビュー『パターソン』――パターソンが詩を書いている、何のために?

 

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パターソン
原題::Paterson
製作年:2016年
上映時間:118分
監督:ジム・ジャームッシュ

鍵のついた秘密のノートのように

 

sotowrite.hatenablog.com

 

先日ひっそりと始めた上記のサブブログで、すぐに読まれることを意識せずに、少しずつ、文章を綴っています。この「ソトブログ」だってアクセス数はたいしたことはありませんが、こちらでは(少なくとも私の意識のなかでは)読者を想定して、リーダブルで敷居の低い文章を意識して書いています。

 

そうしたことをせずに、まるで鍵のついた秘密のノートのように文章を書くということには、(ある種の)快楽があるというこを、改めて感じています。しかしそのように書かれていてもブログとして書かれている限り読まれうる可能性はあるのであって、鍵をかけた引き出しにそっとしまう秘密のノートとは違うのかも知れませんが、果たしてそうでしょうか? ――というのは、「ブログは秘密のノートと違って世界に開かれている」のではなくて、「鍵をかけた秘密のノートであっても、書いた当人は「まだ見ぬ読者」をどこかで意識している」のだと思うのです。

 

 

『パターソン』という映画の主人公、ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手のパターソンは、小さなノートに毎日まいにち、詩を書きつけています。パターソン自身と、同居している妻以外は読むことのないその詩を、妻は、素晴らしい作品だから発表するべきだ、と繰り返しパターソンに提案します。しかしパターソンはいつも、その気はないとはぐらかしています。そして映画で描かれる1週間のなかで、
――コインランドリーの黒人ラッパー
――双子の片割れの女の子
――永瀬正敏が演じる日本から来た詩人
と、都合(少なくとも)三度、彼と同じような市井の「詩人たち」に出会い、二度は相手に、「あなたも詩人なのか?」と聞かれながら、そうではないと答えています。しかし日本の俳人や歌人がそうであるように、詩において、「読むこと」と「詠むこと」は不可分のところがあって、詩作をしている相手にとって、パターソンが十分に詩に関心があり、ということはおそらく詩を書いているだろう、それはほぼ、自明のことだと思われます。

 

そのことは、パターソンもわかっていて、あえてそう(私は詩人ではないと)答えているのです。それは単に恥ずかしいとか自尊心だけでは片付かない、微妙に、しかし確実に決定的にクリティカルな「何か」であって、彼が詩を書き続けていることと関係している「何か」です。

 

「さよなら、エミリ・ディキンスンの好きなバスの運転手さん。」

 

パターソンが出会う、詩を書いているおよそ10歳くらいの双子の片割れの女の子。彼女がパターソンにこう問いかけます。
「エミリ・ディキンスンは好き?」。
彼女もまた(パターソンとは違い、自身の詩作を隠さず、自作をパターソンに読み聞かせさえするけれど)、パターソンと同じ自我のスパイラルのなかに生きています。パターソンが好きだというと、彼女は「さよなら、エミリ・ディキンスンの好きなバスの運転手さん。」と挨拶するけれど、エミリ・ディキンスンが好きなのは彼女なのです。そしてもちろん、彼女にもパターソンが詩を愛し詩を読み/詠む人だとわかっていて、パターソンと同様に生前は自作のほとんどを発表・開陳しなかった天才詩人を引き合いに出したのであって、詩作とは、彼ら/彼女らの孤独な営みのなかから生まれることを、信じているのだと思います。

 

今回、『パターソン』を観たのに併せて、エミリ・ディキンスンの伝記映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』A Quiet Passion(2016年、テレンス・デイビス監督)を観ました。

 

『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』を観ていてもっとも強く感じたことは、極めてまっとうで常識的(と同時代的には思われているよう)な世界のなかで、極めてまっとうに、ということは極めて凡庸に日々を過ごし、人生を送るということと、文学史的にみて最高レベルの、突出した才能というものが両立するという事実だ。エミリ・ディキンスンにとっては、彼女の考える“神”の有り様と、牧師が、教会が、キリスト教という宗教が提示する神の有り様のギャップを生涯受け入れられなかったように、まっとうな世界は生き辛いものだった。しかし彼女は、厳粛な父によって象徴される、彼女にとっては理不尽ともいえるその世界の掟に対し、病を得て亡くなるまで、(少なくとも表面的には)決定的な反逆を起こすことはなかった。しかし、改めていうが、にも関わらず彼女の思索/詩作は同時代的にも文学史的にも唯一無二のものであって、だからこそ/にも関わらず普遍的なものとしてその後の人口に膾炙することとなった。

 

映画『パターソン』のこと(その3)――『パターソン』と『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』あるいは、凡庸に生きる<不幸>と<幸せ>。 - sotowrite より

 

 

彼女にとっては生き辛い「凡庸な日々」を送ることは一見不幸に見えるきらいもあります。そのなかで彼女は、自身の表現とその向こうにある何か――彼女にとっては「詩」そのものでしょう――との対話の日々を続けます。劇中で頑なに、既存の宗教(キリスト教)の、形式的な神との関わり方を受け入れず、彼女なりの方法でのみ神との対話(あるいは、対話しないこと)を続けたように、傍目にはそれは、神秘主義的だったり、単にスピリチュアルなものにも思えます。しかし慎ましく変化にも乏しい日々の小さな出来事、そのものを愛し、ノートに「詩」としてそれを綴る『パターソン』と併せて観てみると、エミリ・ディキンスンの、パターソンの、双子の片割れの女の子の、あるいは彼ら/彼女らが日々出逢う人々や物事そのものが、小さく輝いて見えるようです。実際、パターソンはバスを運転しながら聞いている乗客たちの何気ない駄話を愉しんでいます。それが「詩作に繋がる」からではなく、それを愉しんでいるからこそ、「書き留めておきたい」のだと思います。

 

パターソンは何のために詩を書いているのか?

 

そしてそのような想いは、脚本・監督のジム・ジャームッシュそのもののそれでもあるでしょう。ジム・ジャームッシュの出世作『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の劇中、終始続く駄話のなかで、私が一番好きな会話――。

 

ウィリーがいとこのエヴァに
ウィリー:
「ジョークを聞かせよう。三人の男が道を歩いていた。
一人が“靴ひもがほどけてる”
言われた奴が“分かってるよ”
違った、二人の男が道を歩いていた。
一人が“靴ひもがほどけてる”
言われた奴が“分かってるよ”
そこへ三人目の男がやってきて
“靴ひもが…”、“靴ひもが……”
その先は忘れた。
(一人で含み笑いを浮かべて)面白い話だ」
エヴァ:
「(笑いながら)でしょうね」

 

映画『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)字幕より採録

 

オチやまとまりのない話や、ストーリーの(一見)ない映画に退屈する向きもあるでしょうが、ジャームッシュは初めから、こうした「オチを忘れてしまったジョーク」のような面白さにこだわってきたようです。その世界では、『パターソン』の永瀬正敏の言葉遊びのような会話、繰り返される“Paterson, New Jersey?”“Ah-Hah?"が、その直截的な意味とは関係なく、私たちの日々や人生を祝福する福音のように響きます。それは『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』でエミリ・ディキンスンの周囲の人々が拘るような、儀礼的、規範的な振る舞い、言葉遣いとは異なり、私たち自身が、その都度、日々のなかで発見し、味わうものです。

 

パターソンはそのために詩を書いている。

 

そう思うと嬉しさがこみ上げてくる、私にとってはそんな映画でした。

 

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