リトルプレスやKDPで本を出すこと。
ブログ『おふぃすかぶ.jp』の鈴木章史さんによるKDP(Amazon Kindle Direct Publishing)電子書籍『アカウントを持って街へ出よう Chromebookとの365日』の表紙デザインをさせていただいたことをきっかけに、「KDPで電子書籍を作るのって面白そうだな」と思い始めました。あるいは、企画や内容によっては紙媒体も。ミニコミ/zine/リトルプレス、呼び方の違いやその時折のムーブメントによって、様々な形態がありますが、こうした個人や小さな主体でのテキストメディアの発信には、以前から関心がなかったわけではありません。
以前には、懇意にさせて頂いていたバンドとともに、「小説+CD」という、少し変わった体裁の作品集を作ったこともあり、経験がないわけでもない。
ソト @t_soto さんのC202SAとの日々は是非ブックレット的なものでも良いのでまとめて読んでみたいなぁ、と。とても好きです。
— おふぃすかぶ.jp (@OfficeKabu) 2018年6月14日
Chromebook界隈ではC101PAやPixelbookが話題ですが、私はひとり、せっせとC202SAのデスクトップ環境をカスタマイズしています。 - ソトブログ https://t.co/h8mxHl04Nf
こんな感想を頂いたから言うわけではありませんが、Chromebookのようなデジタルガジェットについて、達人っぽいというか、通っぽい/ギークっぽい感じの、使いこなしとかハウツー、「完全ガイド」みたいなものじゃない、もっと道具との「日常の触れ合い」みたいな視点からの本がないのかな、あったら読みたいな、とは常々思っていて、Chromebookやポメラについては、「だったら自分が」みたいな気持ちもあったり。
多様な語り。
「厚み」のあるジャンル、カルチャーとして成熟したジャンルであればあるほど、そのことに対する語りの多様性があるものです。以前も書いたかもしれませんが、例えば野球について語るとき、野球というゲームの技術論から、各チームのファンの視点、プロ野球全体の興業の視点、プロとアマの関係、選手個人の魅力・バックストーリー/バイオグラフィー、映画や小説といったフィクションにおける野球の描かれ方、などなど――これでも思いつくままに挙げたほんの一例ですが、多種多様な語りのレベルが存在します。
Chromebookというデジタルガジェットについても、もう少し緩い、ふわっとしたテイストのエッセイがあったらいいな、と。私自身、コンピュータは特に得意分野というわけではなく、「だいたい自分にとってやりたいことが過不足なくできる、必要な範囲での知識」を身につけてしまったら、そこからあまり深追いしようというふうにならないのです。映画について、批評家として専門家としての精緻なレビューがある一方で、ファンや門外漢の視点からの感想や、個人の体験と緩やかに(あるいは強く)結びつけたエッセイがあるように、コンピュータ、ガジェットにもそんな付き合い方があってもいい。というか、普段の付き合い方としては、それくらいの感じの人の方が多いのではないかな、と。
ただそうだとしても、そういうものを読みたいという需要/クラスタはまだ形成されたことがない(私が知らないだけかも)し、コンピュータというのは、IT、ネットワークなしに成り立たないものであって、「無知」が致命的なエラー/破局を招きかねない機器でもあります。だから自分が詳しくないからといって、誤った情報を発信してしまうことによる危険を無視していいことにはなりません。
もちろんそれはこうしたブログでも同じですし、そのことについては(一応)自覚的に、不確かな記述やうろ覚えを避けて、必要な情報については信頼のおける他サイトを参照するように気をつけているつもりです。
しかしそうしたことをうまく担保したり、あるいは過度に恐れずに、まずは私自身が「読みたい」と思えるような作り方、体裁、企画ができないかな、というのはここしばらくずっと考えています。
そしてそんなことを考えながら、自宅の本棚を眺めています。
私にとってさまざまなジャンルで、上述したような日常的な触れ合い、小さな語らいのような仕方でモノや場所、芸術や、人や自然について扱った、雑誌や書籍、リトルプレス、フリーペーパー。体裁は様々ですが、同じことを扱っても、関わり方、スタンスの違いでこんなふうに違った切り口になり、出来上がったプロダクト(本/雑誌)としても、こんなに印象の違うものになるのか、と驚いたり、関心したりすることしきり。
そのなかでも今回は、一度買って読んだきりだった、「mürren」という、「街と山のあいだ」をキャッチコピーとした小冊子――若菜晃子さんという、出版社を経て独立された個人による、この素敵な小冊子についてと、この「mürren」の最近号を、とあるオンライン書店で購入した経緯について紹介しようと思っていたのでした。そうしたら、何だか前置き(というわけではないのですが)の文章が長くなってしまったので、その話はまた今度、ということで。
【2018.06.19追記】下記にて、リトルプレス「mürren」と、購入した「スロウな本屋」について書きました。www.sotoblog.com
語らいの<幸せ>のあるような、そんな本。
私は昨年(2017年)7月にはてなブログでこの「ソトブログ」を始める以前は、はてなダイアリーで、どちらかというと虚空に向かって(知り合いくらいは読んでいてくれたかも知れないけど)書くつもりで日記を書いていて、今回の文章を書くにあたって、それを読み返してみていました。
共通の趣味や関心を持つ友人と、大好きな小説や音楽、映画について話していて、大筋はふたりの考えている、感じていることは似ているんだけれど、でも少し違う。でも、その場の会話のなかでは、「違う」ことよりも「同じ」ことの方が強調というか重要視されて、その場の話は「そうだよね」「わかるわかる」ということになるのだけれど、「違う」部分もやっぱり重要で。でも会話としては「違う」部分は言葉にすることが難しくて、お互いたぶん口に出して言うことができない。けれどそういう部分があることもお互いに共有しているはずで、「同じ」ということ、「共感」ということしかなかったら、ぼくはその会話は、というかその関係は(そんなに)面白くない。刺激がない、というか。
お互いもっと何かを言いたいんだけれど、うまく言葉にできない、という状態はたぶん「幸せ」と同義なのです。これは「ぼくにとっては」という話ではなくて、普遍的な真実です。
「言葉が100%伝達することは不可能な欠陥品であるがゆえに、他者との言葉による<コミュニケーション>が成立する」。
なんだか青臭いな、とは思いつつも、大筋で自分の考えていることの変わりなさにあきれつつも、ちょっとこれから考えていることのヒントにはなっているのかな、なんて思ったりしています。
【鈴木章史さんの電子書籍『アカウントを持って街へ出よう』の表紙デザインをさせて頂いた経緯については、こちらに書いています。】