ソトブログ

映画と本、自然観察(あるいは40歳、2児の父の日常)

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映画レビュー『早春』――スコリモフスキのカルト青春映画とバーホーベン版『ロボコップ』を、私的な補助線で結ぶ。

 

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 早春
原題:Deep End
製作年:1970年
監督:イエジー・スコリモフスキ

  

『ロボコップ』の更衣室が示す「バーホーベン的世界」。

 

ポール・バーホーベンが監督した、映画第一作の『ロボコップ』(1987年)における近未来のデトロイト市警の更衣室。シャワールームもあるそこはなんと男女同室になっていて、しかもそのことについて特段言及はされず、すなわち当たり前のこととして進行します。

 

これはある意味でこの映画の持つスタンスの(寡黙な/問わず語りの)宣言ともいえて、そのことの現代的な是非を投げかけているのともおそらく違っていて、バーホーベン的世界のなかでは社会的な意味での性差はないのだ、 という。

 

――しかし、これから書くのはイエジー・スコリモフスキ監督の伝説的、カルト的青春映画『早春』についてであって、「バーホーベン的世界」についてここでは書き切れないし私にそれをする能力もないので踏み込みません。

 

中学校の体育の授業にて。

 

それでも『ロボコップ』に言及したのはここ最近、私が『早春』のひとつ前に観たのが『ロボコップ』だからで、また、上述のシークエンスを観ながら私は、私自身の中学校の体育の授業を思い出したからです。というのは、今では(あるいは当時でも)考えられないことかも知れませんが、私の中学校では体育の授業の着替えは、教室で、男女同室で行っていたのです。もちろん『ロボコップ』のように男女ともに裸になって着替えるというわけではなく、(とくに女子は)巧みに下着や肌を露出しないように着替えていたと思います。

 

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――こう書いてきて、ちょっと自分の記憶に自信がなくなってきたな。いかに20年以上前の時代とはいえ、中学生、思春期の生徒たちを男女同室で着替えさせるということがあるでしょうか。私は高校卒業と同時に地元を出て以降、当時の級友たちと思い出話をするという機会がほとんどなくて、こうした記憶は私の頭のなかだけのことなのです――しかし、少なくとも小学生の頃はそうだったし、高校の時に別室になって(そりゃそうでしょう)、そのときに始めて「あれはおかしなことだったのでは?」と気づいたように覚えているので、今は事実として話を進めたいと思います。

 

体育といっても水泳の場合、すなわち水着の場合はプールに更衣室があるはずなので、それはさすがに男女別々だったのでしょう。しかし男女に分かれて授業をする他の体育の授業と違い、プールはひとつしかありません。授業そのものは、他のクラスと合同で男女に分け、プールのコースも別で行うわけですが、水着という、男女ともにパブリックな場における限度いっぱいまで肌を露出した衣服を着用し、私たち人間が普段そのなかで過ごすことのない水のなかで大人数で過ごす、水泳の授業、プールという空間の非日常性。

 

と、やはりここまで記述して、中学校では最早男女同時に水泳の授業を行うことなんてなかったのでは? と訝しんでもみますが、しかしここでも、水着を忘れて見学となった私が、日差しのきついプールサイドに座り込みつつ眺めていた皆の姿、というより当時淡い恋心を抱いていたクラスメイトの女の子の姿が、おぼろげに目に焼き付いています。

 

公衆浴場、という『早春』の舞台装置。

 


映画「早春 デジタル・リマスター版」予告

 

デジタルリマスター版、という形で1972年の日本公開から数えて40数年、先頃(2018年3月)初めてソフト化され発売された『早春』のDVD(およびブルーレイ)に収録のイエジー・スコリモフスキ監督のインタビューによれば、本作の脚本は、監督自身が知人のカップルから聞いた、雪のなかで指輪を落として探したというエピソードから発想されたといいます。雪に埋もれた小さな金属片である指輪を探すには、落とした辺りの雪を全部すくって、プールの水のなかで溶かせばいい、というアイデアを思いつき、そのようなシチュエーションを迎えるためのストーリーを構築したのです。

 

公衆浴場(プールと個室の浴室のある、日本でいうと市民プールと銭湯を組み合わせたような施設)を主要な舞台装置として設定し、そこに勤務する若い男女をめぐる物語として成立させたことこそが、この映画の青春映画としての核心だと思います。主人公のマイク(ジョン・モルダー=ブラウン)は、学校をドロップアウトし公衆浴場で働き始めた15歳の少年。マイクは職場の先輩であり彼の教育係として彼の眼前に現れる年上の女性、スー(演じるのはポール・マッカートニーの元婚約者であったジェーン・アッシャー)に惹かれていくのですが――。

 

さて、ここまでで私はこの文章を書くのに行き詰まって、今「さて、〜」と書き始めるまでに数時間のブランクがありました。そして実は、「行き詰まって」というのは正確ではなくて、この『早春』という映画のストーリーをリニアに語るのがバカバカしくなってしまいました。

 

私的な補助線によって映画を記憶し、自分の記憶をアウトプットすること。

 

アンジェイ・ワイダやロマン・ポランスキーの監督作の脚本を手がけることから映画的キャリアをスタートさせたポーランド人のスコリモフスキが、英国を舞台に英国人俳優たちを使って撮った1970年製作の本作はもちろん、ヌーヴェルヴァーグやアメリカン・ニューシネマ、そして前述のポーランドの新進の映画作家たちといった、当時の映画界における<新しい波>の流れの渦中にあって、その映画の本質は、――おそらく15歳の少年の早過ぎる悲恋、といったストーリーラインから採られたと思しき邦題にいう「早春」、というようなポエティックで抽象的な概念ではなくて――原題の「Deep End」(=プールの深い方の底、という意味らしい)が示すような、即物的なイメージです。

 

そんな映画について、私のようないち個人が感想としてこのようなブログに書くべきなのは、その映画のストーリーをコンパクトにまとめたうえでその歴史的な意味や画面上に映るフォトジェニックでセンスフルな若者たちと彼らの風俗を、逐語的に綴ることではなく、その映画を観ている2018年の私の眼前に浮かぶ、『ロボコップ』のような別の映画の場面、プールを巡る私的記憶のスナップについて、可能な限りレアな状態で、記述することだと思うのです。

 

――私が本作のような本物の「カルトムービー」に出合ったとき、人から聞きたい感想はそういうものです。昨夜(2018年4月18日)映画を観終わって、そんなことを考えていたら、日付が変わるころ、今国会を騒がせているある事案にまつわる某テレビ局の会見が、始まりました。こう書いて数年後の私たちが、そのことを思い出せるでしょうか?

 

解説ブックレットや監督自筆サインをあしらったTシャツを同梱したコレクターズBOX。他に通常版(ブルーレイ/DVD)もあり。

 

 

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