ソトブログ

映画と本、自然観察(あるいは30代後半、2児の父の日常)

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映画レビュー『私は猫ストーカー』――人間のドラマで映画は成立しているが、この世界は人間のドラマで成立しているわけではない(例えば、猫がいて)。

 

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私は猫ストーカー
製作年:2009年
監督:鈴木卓爾 

 

このブログでは映画レビューを書いていますが、そのほとんどは、(新作・旧作関わらず)書いたそのときに初めて観たものです。しかし今回は、私が何度も観返している大好きな作品について書いてみたいと思います。

 

あるツイートと、鈴木卓爾監督『ゲゲゲの女房』。(いっけん静かな映画なのに、凄まじいテンションと、弛緩した笑い)

 

きっかけは私自身のこんなツイートから。

 

 

鈴木卓爾監督による映画版の『ゲゲゲの女房』は本当に大好きな作品で、折に触れ観返しています。先日も、少し久しぶりに、何の気はなしに観てみたら非常に気持ちが昂ぶって、映画の感想はあまり呟かないのですが、思わず書いてしまいました。

 

するとしばらくして、(おそらく監督自身にリツイートしていただいたからか)ふだんよりも広く人の目に触れたようで、未知の方からこんなリプライを頂きました。

 

 

鈴木卓爾監督の作品には、こんなふうに、人の心を揺さぶるところがあるようです。私は続けて、こう書きました。

 

 

思い入れの強い作品になるほど、それについて何かを書くのは難しくて、書きたいことがありすぎて、何をどこから書いたらいいのかと途方に暮れてしまいます。『ゲゲゲの女房』についてもいつか書いてみたいですが、今回は同じ鈴木卓爾監督の『ゲゲゲの女房』の前作に当たる、『私は猫ストーカー』について。

 

猫追いかけて、猫追いかけるエッセイの映画化、『私は猫ストーカー』。

 

 

こちらも大好きな作品ですが、前述のリプライをきっかけにまた観返してみる気になりました。あえて作品のことに入る前にこういうことをわざわざ書いているのは、この映画には、そうした、誰かと誰か、何かと何かを緩やかに繋げる力があると思うからです。

 

本作は、イラストレーター/エッセイストである浅生ハルミンさんによるエッセイを原作に、そのエッセンスを抽出しつつ、それをフィクションに仕立て上げています。原作は、「猫ストーカー」という尖ったワーディングとは裏腹に、猫が好きで猫を追いかけるハルミンさんの、細やかでいてのほほんとした佇まいの日常を描出したリーダブルなエッセイです。映画としては、それを「フィクションに仕立て上げて」いること自体の手腕が素晴らしいことは前提としてあるのですが、私はむしろ、猫ストーカーをする主人公・ハル(星野真里)の心理を内側から説明することをほぼ排しているにも関わらず、猫ストーキングの、というより猫がこの世にいること、の尊さ、有り難さを、(私のような特に猫好きではない人間にも)伝え得ている本作の持つ「強度」に心が震えました。

 

(うーん、「尊さ」「有り難さ」「強度」ではどれも本作の持つルックの柔らかさと対極にあるようで、魅力を伝えるのに不十分であるどころか逆効果な気もして、迷うところですが、もう少し続けてみます。)

 

“猫には知らない時間がある。人にも知らない時間がある。”

 

映画冒頭を初めとして、本作では、ハルが猫ストーキング(街のなかにいる、野良猫たちの傍にできるだけ近づいて観察する)するシークエンスが出てきますが、それらは演技でフリをしているのではなくて、そこでは実際に、演じている星野真里さんが見つけた猫をストーキングしているのだそうです(DVDの鈴木卓爾監督によるオーディオコメンタリーに拠る)。

 

そこには脚本段階では、原作エッセイから抽出した説明モノローグが添えられていたそうですが、本編からはそれらはカットされています。ただ一箇所を除いて。

 

私が道ばたで出会う猫は、たまたまそこにいただけであって、そこは永住の地ではなく、いつも移動の途中であると言えます。
別の場所からここまで来て、また、思い出したようにどこかへ立ち去ってしまいます。
猫には知らない時間がある。人にも知らない時間がある。私にも、あなたの知らない時間がある。あなたにも私の知らない時間がある。
ミュージシャンになりたいって言ってたあの人は、今ではふるさとでリンゴを作っていて、来年、私の知らない人と結婚するそうです。

 

映画『私は猫ストーカー』、映画中盤のナレーション(モノローグ)より聴き起こし

 

ハルが猫ストーカーをしている理由も、かつての恋人と別れた理由も、はっきりと説明されません。モノローグの後半に出てくる「あの人」は、それより前の場面でハルが電話で話をする、かつての恋人のことであって、劇中では、ハルの働く古書店の同僚である真由子(江口のりこ)の、
「猫好きの女の人って、何かを猫に投影してる」
というような台詞もあり、そこに古書店主と妻をめぐる男女のドラマも重なることで、中盤のこのモノローグのあとの後半、映画は外見上、人間たちのドラマにシフトしていくようにも見えます。しかしよく注意してみると――、あるいは、古書店「猫額洞」の猫、チビトムのように、その傍ら、レジ横で気の抜けた表情で座っているハルのように、ぼんやりと無心で眺めていると――、極めてドキュメンタリックで、現実の似姿、現実そのもののような画面のなかの世界が、実はこの世ならぬ場所であるかのように見えてくるのを私は感じざるを得ませんでした。

 

『私は猫ストーカー』のなかで起こるさざなみのようなドラマの主体である人間たちも、ハルが猫ストーカーをしている街なかでふいに出会う隣人たちも、全員が妖怪のように見えてきます。(諏訪太朗演じる自称猫好きの自称お坊さんや、本作の脚本家の黒沢久子さんがカメオ出演している公園にいる猫好きの女性、そして品川徹の猫仙人!)

 

この世界は人間たちのドラマで成立しているわけではない(という愉快さ)。

 

だから私は本作は、(公開順は逆になりますが)同じ鈴木卓爾監督の『ゲゲゲの女房』の続編なのではないかと思っています。103分の映画を映画として成立させるために人間たちのドラマは必要だったけれど、この世界は人間たちのドラマで成立しているわけではない。そして人間たちが妖怪に見えてくるそのときこそ、気が狂ったサルである人間たちが、猫や他の生きものたちで成立している世界の側に迎え入れられるのです。

 

そうした意味でこの映画ほど、観ていて、観終わってピースフルな気持ちになる映画はないし、猫好きとか猫嫌いとか関係なく、「この世界は、例えば猫たちがいて、成立しているのだ。」と思って嬉しくなる、そんな素敵な効用を持った、最高のエンターテイメント作品だと思います。

 

DVDは廃盤のようですね。実は私も手許にソフトはなくて、これを機会に中古か、何らかの形で入手したいと思っています。

 

浅生ハルミンさんの原作エッセイ。この素敵なエッセイがあってこそ、映画『私は猫ストーカー』の最高の猫ストーカーシーンも存在しています。

 

【過去記事より】

www.sotoblog.com

 「#名刺代わりの映画10選」には入れませんでしたが、『私は猫ストーカー』はこれらと同様か、それ以上に特別な一本です(私にとっては)。

 

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