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映画レビュー『アバンチュールはパリで』――原理的に面白くなくなりようがない、ホン・サンス無双。

 

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アバンチュールはパリで
原題:밤과낮
英題:Night and Day
製作年:2008年
監督:ホン・サンス

 

「滅茶苦茶面白かった」という言い方が滅茶苦茶似合わないが、滅茶苦茶面白い。

 

初めてホン・サンス監督の映画を観ました。

 

いきなりの結論としては、滅茶苦茶面白かった。しかも、「滅茶苦茶面白かった」という言い方が滅茶苦茶似合わない面白さ。そういう感じは、ホン・サンスの映画を観慣れた方なら相槌を打っていただけるのではないでしょうか(繰り返しますが、私はホン・サンス作品を観るのは初めてでした)。

 

ところで、ここで、「しかも」という接続詞は、間違いじゃないか、と思う方もいらっしゃるかもしれません。逆接、「しかし」じゃないの? と。――しかし、ここは「しかも」なのだ、この映画自体が(そして、おそらく他のホン・サンス作品も)創り出しているそのような種類の面白さを証明しているのだ、と言いたい気持ちに今私はなっています。

 
――私は今まで、現実逃避をしたいと思って映画を観たことがありません。かといって常に自分の現実と照らし合わせてみたり、アクチュアルな問題意識を持って生真面目に、分析的に映画を観ているわけでもない。


(私はいつも、夜、アイロンをかけながら、DVDで映画をかけています。手を動かしながら、やけどに細心の注意を払いながら――私は不注意な人間なので。)

 

“ここで観るのを止めてもいいくらいだ”

 

私はこの映画を観始めて15分、あるいは10分か、5分かも――すでに滅茶苦茶面白くて可笑しくて、ここで観るのを止めてもいいくらいだと思いました。そしてこれを、『アバンチュールはパリで』を観ながら、ときどき画面ポーズをかけながら書いています。


そういう見方は反則だ、もっといえば映画に対する冒涜だ、という人もいるでしょう。それはもっともだ、と私も思います。没頭できない映画はつまらないのではないか、とも。しかしこんなふうに無類に面白いのに、「他のことを色々考えてしまう」映画はそんなに多くはなくて、だからこそ私はいったん、そうした意見を棚に上げたい。というか、遠くへ放り投げたいと思います。

 

「せっかく映画なんていう、めちゃくちゃ贅沢な娯楽を味わっているのに、なんで穏当なことを言うのですか。」
と。

 

あらすじは意味がない。

 

 今回私はこの記事の冒頭の作品データに、あらすじを書きませんでした。書いても意味がないと思ったからです。と言いつつ紹介してみると、Wikipedeiaのあらすじには以下のように書かれています。

 

パリに来た画家のソンナム(キム・ヨンホ)は、元恋人のミンソン(キム・ユジン)と偶然に再会する。ミンソンはしきりにソンナムを誘惑してくるが、ソンナムはそれを避けようとしている。
宿主(キ・ジュボン)の紹介によって、ソンナムは画学生のヒョンジュ(ソ・ミンジョン)と知り合う。どうやらヒョンジュはソンナムに興味を持っているようだが、ソンナムはヒョンジュの友人であるユジョン(パク・ウネ)に一目惚れしてしまう。最初はソンナムを相手にしなかったユジョンだが、デートを重ねるうち、ふたりの心は近づいていく。

 

アバンチュールはパリで - Wikipedia

 

実に、あらすじとしてはこの通りです。この通りではありますが、これを読んで面白いと思うでしょうか。作品のタイトル(邦題含む)、パブリシティのヴィジュアルから想起されるような、ロマンティックコメディを期待しても、そういうものとも違っています。

 

例えばこんな場面があります。あるとき、主人公のソンナムがパリの街を歩いていると、清掃員が水を流しながら道路を清掃しています。映像では、道路に水が流れてくる――、路肩に犬のウンチらしきものが落ちているのが見え、ゆっくりと水に流されていく――、制服を着た清掃員が画面の外から入ってきてホウキのようなもので掃いていくが、形だけ路面をさらっているような感じで、どうも犬のウンチを綺麗に片付けているふうではない。――その一部始終をソンナムが眺めている。――それだけのシークエンスです。しかも「形だけ路面さらっているような感じで、どうも犬のウンチを綺麗に片付けているふうではない。」というのは観ているこちら(私)の解釈で、カメラはウンチが片付けられているかどうかちゃんと写していない。私はこれまで観てきた他の映画やフィクションの文法で、そのような「小話」とか「くすっと笑うような短い挿話」みたいなものだと思ったわけですが、そういうものでもないかもしれない。

 

――144分の映画のなかでこういう瑣末に見えるシークエンスが、しかし本当に「瑣末」なのか。映画のストーリーとしては一見、ソンナムなる男の、だらしない、というか端的に身勝手な、女性たちとの付き合いが軸になってはいるようです。それでも私には、こういう場面が、「おまけ」のようなものには思えません。

 

観るたびに最高傑作、「しかも」その面白さに理由はない。

 

 ホン・サンス映画の魅力について対談した、菊地成孔さんとハン・トンヒョンさんの記事が、ウェブサイト「リアルサウンド映画部」にあります。

 

菊地:デビュー作を1本観たときの気持ちが、ずっと永遠に続くような監督ですよね。今回の作品『今は正しくあの時は間違い』(2015年)について、私なりの言葉で評すると、「ホン・サンスの作品は観るたびに最高傑作」だなと(笑)。『3人のアンヌ』(2012年)を観たときに「これ以上のホン・サンスはない」と思って、でも、加瀬亮さんが出演した『自由が丘で』(2014年)を観たときは、またしても「これこそが最高傑作」と思った。それより前に『次の朝は他人』(2011)を観たときなど「映画史上のクラッシックスを出したかとうとう。もう自分を越えられないだろう」とまで思った。ところが今回の『今は正しくあの時は間違い』を観たら「とうとう最高傑作が出た」と(笑)。

 

リアルサウンド映画部「ハン・トンヒョン×菊地成孔が語る、ホン・サンス監督の魅力 なぜ観るたびに“最高傑作”なのか?」 より

 

私はこれを読んで、また今回、『アバンチュールはパリで』を観て、確信しました。この映画は(あるいは他のホン・サンス作品も)、面白い場面に面白い場面が続き、更にその場面に次の面白い場面が続く――、

 

Aという事実が起こった「ゆえに」Bが起こった、という順接でもなく、
Aという事実が起こった「けれど」Bが起こった、という逆接でもなく、
Aという事実が起こった「それから」「しかも」Bが起こった、という、並列・付加のような物事の繋がり(あるいは繋がらないこと)。

 

――(原理的に?)面白くないわけがない、映画なんじゃないかと。しかも、その面白さには結局、理由はないのだ。

 

こんな映画を観ない手はない。引き続きホン・サンス作品を観ていこうと思います。

 

【DVDは既に品切れのようです(Amazon等で中古等の販売はあり)。】 

 

【上記の菊地×ハン対談も収録の、菊地成孔による“アルファヴェットを使わない国々の映画批評”。私も今読んでいるところで、ホン・サンス『次の朝は他人』評も収録されていますが、私は観てから読もうと思います。】

 

【映画レビューより。こちらは“ずっと観ていたい映画”で、こちらも“アルファヴェットを使わない国の映画”。】 

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