今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」
(この記事は私の妻が十数年前に撮った写真に、私が文章を添える形の連載の2回めです)
この街にはこのカフェがあって、このカフェはこの街にしかない。
土曜日は長男にも次男にもフラれて行きつけのカフェにいた。都会とはいえないこの街に住んでいて不便を感じることもなくはないけれど、この街にはこのカフェがあって、このカフェはこの街にしかない。そして、ここの名前を明かすことはできない。この文章はそのお店の紹介記事ではないし、店主もそれを望まないだろう。
コーヒーも紅茶もケーキもホットケーキも、ランチもモーニングも本当においしくて、野菜を食べない長男がここのモーニングのサラダなら食べられるくらいなのだけれど、料理や飲みものと同じかそれ以上に、私が愉しみにしているのは店主とのお喋り。この店は店主ひとりで切り盛りしているから、話せないときもあるが、忙しい時間帯もそうでないときも、少なくとも傍目には、いつも同じように落ち着いたテンションを維持している店主の振る舞いには敬服している。(でも本当は、そうしたなかで色々な感情があることも店主との話でわかって、というか誰だってそうだということを私はわかっているべきで、だからこそ敬服している)。
店主とは世代も近く、映画や音楽の話、子どもの話、青春時代の話、YouTuberやインスタグラマーの話まで、何を話していても愉しい。子どもたちと来ても妻と来ても、一人で来ても愉しい。
40年近く生きてくれば、たとえどこに住んでいても、そのような場所のひとつくらい見つける自信(というのもヘンだが)はあるけれど、やっぱりこのカフェはここにしかない。今ではウェブのなかに存在しないものは存在しない、あるいはそこまで言わなくても存在する価値がない、と思っている、端的にいって無知蒙昧な人も、いるかもしれない(実際に会ったことがないのでわからない)。こういう場所を知っていればそんなことが無限にあり得ないということは一瞬でわかる。
何かどん底に落ちたときに、どうしようもないときに、「誰かが」助けてくれる、というようなことは突き詰めると結局、あり得ないことだ。それは自分で落とし前をつけるしかない。たとえ最悪の決断であっても。ただそれは同時に、私たちは誰かとともにしか存在し得ないし、常に誰かに助けられている、ということでもある。「でもある」は違うかな。前者と後者は別の次元だけれど、どちらも真実なのだ。そういうことは本を読んだり映画を観て学ぶことも出来るし、実際に何年、何十年と人と接したり、孤独を噛み締めたりして知ることも出来る。
――というような説教を年長者が、したり顔で年若い後輩にしていたのなら、聞かされる身としてはたまったものではないが、一面では真実で、ではどこがか、というと、「本を読む」ことと「実際に経験すること」が等価であるという点だ。
映画をして、「実際に人は映画のように繰り返し恋愛したり、辛い目にあったり、殴り合ったり、殺し合いをしたり出来ないから」映画を観て予行演習したり、映画に仮託したりするんだ、という言い方もあるけれど(「映画」のところは「小説」とか「マンガ」「ゲーム」でも可)、そういう言い方とも違って、やっぱり等価そのものだと、私は思う。
写真に映っている風景は現実そのものなのに、現実とは乖離して感じられるものだけれど、写真には一瞬に永遠が収められている。というのは私が今思いつきで書いたことだがいつも誰かがどこかで言葉にしたり思ったりしている(たぶん)。
だから私は、好きな場所で好きな人と話していると、こういう文章が書きたくなる。
先日の店主お薦めの映画(私はまだ観ていません)。