今週のお題「読書の秋」
映画『ダンケルク』に物語がない、というのは実はウソというか、雑な言い方で、端的な語り口の問題だと思います。しかしながら、戦争を題材にしたフィクションには(少なくとも私の好きな作品には)、物語を逸脱していく傾向があって、戦争というテーマをフィクションに仕立てるという「一大事業」において、作り手にとって、ある種の誠意/倫理観/個人的体験との折り合いetc.を突き詰めると、そうした形になる必然があるように見えます。今回は私の好きな小説のなかから(「戦争そのもの」ではないものもありますが)、憧れと敬意を込めて、紹介してみましょう。
※作品名の後ろの括弧内は、原著の刊行年です。
ウィリアム・ウォートン『クリスマスを贈ります』(1982)
第二次大戦末期、仏・アルデンヌ。アメリカ軍の偵察隊として送り出された若い兵士たちが、無人の城を占拠し、そこでドイツ軍で対峙する。クリスマスの夜、独軍と鉢合わせした彼らが、ふとしたきっかけから敵方と意気投合して、死を避けるためにウソの戦闘を行うことにするが……という、いかにも映画的なストーリー。戦争の現実というより、若い兵士たちのやりとりの瑞々しさ、生々しさが妙の青春小説という趣き。だからこその苦い結末もあって、忘れがたい作品です。そしてやはりというべきか、キース・ゴードン監督により、『真夜中の戦場/クリスマスを贈ります』(原題:A Midnight Clear、1992年)として映画化されています(日本未公開)。一度VHSで国内盤もリリースされていたようですが、現在は廃盤。この原作小説も絶版ですが、ぜひとも復刊して欲しい一冊。
ティム・オブライエン『カチアートを追跡して』(1978)

- 作者: ティム・オブライエン,Tim O'Brien,生井英考
- 出版社/メーカー: 新潮社
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村上春樹の翻訳・紹介でも知られるティム・オブライエンの、ベトナム戦争を舞台とした長編。戦場から離脱し、ベトナムからパリまでヒッチハイクで逃亡しようとする脱走兵、カチアートを追跡する友軍たち。『クリスマスを贈ります』以上に奇想天外な筋立ては、ベトナムと第二次大戦という、小説の書かれた「現在」からの距離感のゆえでしょうか。史実的なリアルさと、戦地の兵士のリアル、それを描くリアルとは、それぞれ違うのだと感じさせます。
田中小実昌『ポロポロ』(1979)
著者の中国戦線での体験を描いた連作短編集。本ブログの『ダンケルク』レビューで唐突に、本作から「寝台の穴」を取り上げましたが、田中小実昌の「物語になること」を拒否する姿勢は徹底しています。ノーランと違うのは、戦場での弛緩した時間をそのまま描いていることで、著者本人の実体験だから、というより、戦争を描いてこのように、悲壮感や切迫感よりも、淡々とした事実やそこから生まれるおかしみを、即物的に描いた文章は、著者の唯一無二のものだと思います。
大西巨人『神聖喜劇』(全5巻、1978~1980)
キューブリックの映画『フルメタル・ジャケット』に代表される、“新兵訓練モノ”の系譜にして、その金字塔、極北。全五巻、400字詰原稿用紙にして4,700枚の超大作。1942年1月、長崎県、対馬要塞の重砲兵聯隊に補充兵として入隊した藤堂太郎らの陸軍内務班での過酷な新兵訓練を描いています。主人公・東堂太郎は超人的な記憶力を武器に、上官たちや軍の論理そのものの不条理に抵抗していくのですが、東堂の記憶力や意思は本当に圧巻で、フィクション史上最強のスーパーヒーローだと思います。私の友人が、結婚披露宴の自己紹介に「尊敬する人物:東堂太郎」と書いていましたが、その気持ちもわかる。
高橋源一郎『ジョン・レノン対火星人』(1985)
高橋源一郎の幻のデビュー作。デビュー作『さようなら、ギャングたち』以前に書かれ、『すばらしい日本の戦争』というタイトルだった作品を加筆修正し刊行された作品。「すばらしい日本の戦争」という登場人物(!)が出てきますが、どこからどうみても戦争小説ではないように見えます(Wikipediaであらすじを見てみてください)。見えるけれど、日本の戦前・戦後史や、著者自身が参加し、その後デビューまでの約10年間、書けなかった全共闘運動が踏まえられていることは明らかでしょう――そういうこを意識せずとも、「T・O(テータム・オニール)」やら「ヘーゲルの大論理学」「石野真子ちゃん」らが登場する作品世界の荒唐無稽さに、10代だった初読時の私は心躍ったものです。
赤坂真理『東京プリズン』(2012)
こちらはより真剣に(高橋源一郎が真剣じゃないということではありません。為念)、「天皇の戦争責任」に言及した小説。そんな小説が、現代(2012年初刊)に書かれるということが驚きですが、アメリカの高校で、新旧をかけたディベートの課題として、16歳の少女が取り組んだ課題がそれだったという筋書きもまた、驚き。意外にも読みやすく、小説という器によって、人間の考えることのできること、の幅は大きく広がるものだということを再認識しました。
柴崎友香『わたしがいなかった街で』(2012)
36歳の独身女性(離婚して1年)が、契約社員として日常を描きながら、部屋で毎晩のように戦争ドキュメンタリーを観て、海野十三が書いた戦時下の日記を読んでいる、という設定が突飛に感じられますが、それこそが作家自身の関心なのでしょう。そしてそれは、はっきりとした目的意識を持ったものではなく、ただ観ずにいられない、読まずにいられない、緩やかだけれど、強い関心。それは私たちの「いまここ」の日常が、過去や異国の地のような、遠く離れた時空間と繋がっている、という感覚への信頼によるのではないか。そうしたことを、私たちの隣にいるような、ごくふつうの女性の日常のなかで描いていることに凄みを感じます。
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